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憲法記念日に憲法を考える

 
憲法記念日の今日、各新聞や政党がそれぞれ独自の憲法改正案を打ち出している。しかしどれも自分の優位性を訴えるだけで、本当に憲法改正して日本という国をどうするかという信念というのが伝わってこない。大切なのは、憲法の文言ではなく、そこに流れている精神、気魄なのである。自衛隊を軍隊と呼ぼうが、集団的自衛権を憲法で認めようが、要は国民のやる気がなければ何にもならない。逆にその気迫さえあれば、現行のいわゆる平和憲法でも充分誇りある国家として日本が生きていけるのだ。

日本国憲法の前文にうたわれている平和主義の思想は、あまりにも理想論で現実感に乏しいと感じられ、特に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」の所は、まさに軟弱な丸腰の日本人としての誇りある姿ではなく、後は皆さん守って下さいと願うばかりの情けない日本人を作ってしまう条文のような気がする。ところがそれに続く条文を読むと、「我らは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という文が続く。これはどう解釈すればいいのだろうか。

この「名誉ある地位」は悪くはないだろう。まさに日本の望むところだ。世界の国々は平和のため努力を重ねて、専制や差別のない国づくりに邁進している。その中でも日本は優位に立ちたいと言っているのである。 これをもっと積極的に解釈すると、我が日本国は、とことん平和主義を目指して突き進み、この地上から専制と隷従、圧迫と偏狭をもたらすものに対して、断固とした姿勢で臨み、戦争のない平和な世界を作り出すために全力をあげて行動するという決意表明であると読み取れるではないか。

さらにこの前文と憲法9条の侵略戦争を禁じた規定によってまさに現在の自衛隊は外国を侵略するためではなく、世界の平和を実現するための平和維持部隊であるということの宣誓とその存在意義を宣言していると言えないか。

そして前文の締めくくりで「日本国民は国家の名誉にかけて全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と高らかに歌い上げている。世界平和の実現を我が日本国の名誉にかけて行うと宣誓しているのである。

こう考えると、日本国は世界のあらゆる貧困や差別、専制や隷従の行われている国家や地域に対して、もっと積極的に平和主義活動を行わなければ、憲法違反になってしまうのである。さらに世界平和を乱す国際テロに対しては、日本が平和主義だからこそテロと戦う義務を負うのである。平和主義者だから戦いは嫌だということには全くならないのである。シナの多民族への圧政、北の専制、ロシアの領土占領などは、世界の平和を乱す原因になりかねないのであり、日本の平和主義という国是への挑戦となる。全力で平和のために解決しなければいけないのである。

現在の貧しい政治状況を考えると、とても自主憲法の制定なんかは望めない。だったら憲法改正で無駄な時間を費やすのはやめにして、現在の平和主義憲法をとことん極めていくことで新しい日本の姿を見いだすことの方が賢明ではないだろうか。そして、やがて日本国は世界で名誉ある地位につくことができるのである。
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男の美意識

 空手は格闘技ではない。組手で相手は確かに目の前にいるのだけれど本当に戦う相手は自分自身なのである。空手に組手というジャンルはあるが、これはあくまで基本の応用であり形の実践なのである。だから組手の構えも立ち方も足の運びかたも基本に忠実でなければいけない。組手が基本、形から離れてしまって全く別物のようになってしまっているのが目に付く。これは組手において余りにも相手を意識しすぎてしまって、おのれの空手というものを忘れてしまった結果ではないか。こういう状態は相手に呑まれてしまっている状態で、自分のペースとリズムを忘れてしまっている。どうすればいいか。簡単である。リズムを取ればいい。何だっていいができれば普段の稽古中に浮かんでいるリズムが一番いい。リズムと行っても体で取ってはいけない。ほんの小さな上下動とか手の調子とかできれば体の中で起こすリズムが一番いい。外からはわからないやつがいい。こうして自分の旋律を保つことができればその試合をコントロールしたことになる。旋律を忘れてしまってはいけない。武道は美しくなければいけない。そこが格闘技と大きく異なるところなのである。

 組手において逆突きをくらってしまうのは、相手の初動の刻み突きに対して、反射的に前足を引いてしまうからである。そうすると体が上に伸びてしまい中段が空いてしまう。心すべきことである。これはなぜ起こってしまうのか。軸を中心に体を移動させる稽古をしていないから起こる。つまり運足は体の中心である軸を前後左右に動かすことであると言うことが叩き込まれていないから起こるのである。相手の攻撃を避けるために、手や足や体をその都度ばらばらに動かしては、時間もかかるし忙しいし効率的ではない。自分の体の中心軸を移動させれば一発ですむし確実に相手の攻撃をかわすことができる。普段の稽古でこの中心軸を移動することに意識を置いた運足をやれば、自然と合理的な体捌きが身につくはずである。

 体の軸を保つと言うことは、とりもなおさず姿勢を正すということにつながる。姿勢を崩さないということである。どんなときでも常に平常を保っているということである。また旋律を忘れないということは、美意識を持つということでもある。動きに旋律を持つということはなかなかに難しいが、それができればその動きは美しい。空手のあらゆるモノにこだわりを持ち、その取り組みの姿勢が真っ直ぐで変わらず、その挙措に旋律を持って行動するように努める、それが男を磨くということなのだ。小さなことにもこだわり、そういう美意識を決してなおざりにしない、ということだ。

 相撲の世界に稽古場大関というのがある。土俵の上では強いが、世間に出るとからきし役に立たない人間をいう。これでは何のために相撲をやっているのかわからない。そこで得たものが別のところで活かされないことにはモノの役には立たないのだ。空手も同じである。特に生涯空手というものは、もっと気持ちというものを長く持って、何年も何度も繰り返し同じことをやって、そのうち自分なりの空手というものを何となくつかむことができるようになる。それが何か生き方のようなものに活きて来る。その上で世の中に自分が何か役立つような仕事ができるようになる。そうなって初めて生涯空手と言えるのであって、また武道家と言えるのであると思う。

小心者、がさつでわがまま、短気で怠け者でええかっこしいのこの自分が何とかやってこられたのは空手のおかげであると思っている。自分では何も変わっていないつもりでも高校や大学の同級生から、ええあの森田が、と不思議がられることがある。やはり変わったのだと思う。姿勢と矜恃という美意識を自分なりに意識して空手をやっていけばいいと思う。うまくなくてもそんなに強くなくてもそれはあまりたいしたことではない。自分がやっていることに多少でもプライドが持てればそれで十分である。それがまた少しでもどんな形でも世の中に役立つモノであればそれはもう立派なモノだと思っている。

内蔵鍛練はなぜ必要か

  前回、自己評価の難しさについて書いたが、生涯空手において今の自分をどう評価するかということはとても大切なことなのである。それは決して正しく評価すればいいという訳でもない。時には大甘な採点もあってもいいと思うし、逆に激辛であったっていい、と思う。評価はただ評価のみに終わらず、自分を鼓舞したりあるいは戒めたりしてうまく自分自身をコントロールしていく手段でもあるからである。また評価の基準をどこにおくかというのも問題である。空手に関しても形の解釈や技の使い方、緩急や強弱など変化する場合も多い。できるだけぶれないように一貫性を保った方がいいに決まっているが、それでもある程度臨機応変は許されるだろうし、またそうしなければ空手道の時代の流れや個人の適応にあったフレキシビリティは失われる。

 この不安定な揺れる中での自己統制は、かなりのストレスを生む。他人と自分との違いでの揺れ、理想と現実の狭間、空手の流れと自分の目指すものとの乖離、さらには自分の意志と身体能力との差、ありとあらゆる事象の中で生み出される際限のないストレス、実はこれこそが生涯空手を維持していくための原動力だったのではないかと最近思うようになった。

 元々ストレスという言葉は物理学用語であったが、いつの間にか医学に多く用いられるようになった。人の体は外部からストレスがかかると、交感神経が興奮してアドレナリン等のホルモンが分泌され血圧上昇、血糖上昇といういわゆる戦闘状態に入る。また痛みを感じにくくしたり、赤血球や血小板の働きを盛んにして酸素運搬能力や出血に備える体制にもなる。まさしく空手に適した体へとなるのである。だから暑い、寒い中での稽古や負荷のきつい稽古、忍耐と根気の求められる稽古は全てそのストレスという原動力を生むためにおこなっているといってもいいくらいである。武道にとってはストレスは欠かすことのできない要素なのである。

 このストレスがなくなってしまうと副交感神経支配の体になってしまい、無気力で無関心で意欲が著しく低下してしまうのである。だからすべての人間にとっても実はストレスは有用なのである。ストレスをなくしてはいけないのである。ただこのストレス支配の体は、免疫力が落ちていたり、高血圧、高脂肪、高血糖など昨今やかましいメタボな体質を造りやすいという欠点がある。こうなるとストレスがかかりっぱなしという状態は体にとって有害となってしまう。筋肉の成長には負荷というストレスが必要ではあるが、負荷をかけっぱなしにしていると次第に筋肉は萎縮してしまう。適当な休みが必要になる。その休みが絶妙であれば、超回復あるいは超代償といわれる、飛躍的に筋肉が増強されるメカニズムが生まれる。ストレスを受けたらそれをうまくリセットする、これもまた非常に大切なことなのである。これを活かさない手はない。これこそが浩氣塾でいうところの内臓鍛錬の存在意義なのである。単なる呑み、では決してないのである。

 このところの負荷がかかりっぱなしの身には、どれほどの内臓鍛錬が必要なのか。思い切り内臓鍛錬して、是非とも超代償の回路にこの身を突入させたいものである。

男子の本懐

  現実感がないとか、他人事、関わりを持ちたくない、など最近起こっている社会現象は、人間の五感の脳への入力に対して身体がうまく対応できていない状態だと思う。まるでテレビドラマを見ているように、傍観者で居続けている。
もちろんテレビでは、その中で起こっているドラマに自分が干渉することはできない。ところが、長い間テレビやゲームの中で過ごしてしまうと、現実に起こっていることでも自分との関わりのないものとして認識して、「知」という入力に対して何ら有効な出力が起こらないのである。

 安全であること、平和であることは、日本人にとってただ危険でないとか戦争がないというだけの否定概念でしかない。その考えでは、自ら進んで安全を求め、平和を獲得するという出力は起こらない。それは長い間、故意に安全でないもの、平和でないものから目を背けてきて、それらからの正確な入力を拒んできたからである。だからいざ異常な事態が起これば、たぶんオロオロするだけの醜い家畜同然の惨めな日本人の姿を見せつけられるのではないかと、新年早々危惧するのである。

 男は男らしくとか女は女らしくという当たり前の性差さえも、最近とても怪しくなってきている。遺伝子レベルの話で、たった一つのYと言う染色体が、男を決定づけている。しかしこのY染色体は、とてもはかない存在でどんな時でも常にYであり続けようとしないと大勢のX染色体に飲み込まれていってしまう。男が男であるためには、絶えず男であろうとしていなければ、男は保てなくなってしまうのだ。放っておけば哺乳類というのは、すべて女性化していくようにできているのである。

 男という性(さが)は、出力に発揮されるのである。世の中の現象を我が五感で正確に捉えて入力をし、己の力量でできるだけの出力を生み続けることが、男であり続ける絶対条件なのである。日本の財政問題、核問題、環境問題、など目の前に起こっている諸問題に対してどれだけ身近に己の問題として捉えることができるか、それらの入力が、どれだけ自分の五感を振るわすことができるか、その絶え間のない完結することのない出力を得ることが、男子の本懐なのではないか。

なんだかんだの空手道

  何だかあっという間に今年も最初の一ヶ月が終わってしまった。昔は一年の計は元旦にありなんて言っていたが、最近はテレビでもとんと耳にしなくなってきた。世の中全体が進むべき指標を失ったのか、それとも飽くなき前進に疲れ果ててしまってどうでもよくなってしまったのか。もし後者ならまずいぞ、それは。少なくても個人的な夢というか願望みたいなものは持ち続けたいものだ。なぜなら個人の夢の集合が国家のビジョンとなるからだ。

今年の個人的な夢は、まずなんと言っても、七段を取る、これが一番だ。考えたらこれが最後の昇段審査となる。これより上は推薦になるからだ。形と組手と質疑応答。これで落ちるという事はどういう事だ。形がや組手が下手ということなのか。空手を40年やってきて自分なりに空手というものがわかってきて、それで審査で落ちるという事が果たしてあっていいものだろうかと考えてしまう。自分の空手は何なのだ、という事だ。それはたとえ受かってもおなじこと。何かストンと落ちない。とは言えやはり七段を受けてそして合格したい。その後でまたしっかりと考察したい問題だ。

40年間空手をやってきたとはいうものの、後半の20年間はただ、いままでの空手の維持に務めてきた気がしないでもない。学生の頃の感覚をなんとか思い出しできれば、その時の空手を取り戻したい、とそんなある種郷愁の念のためにやっていたようにも思う。それがここ最近変わってきた。明らかに前の空手、今まで歩んできた空手の道の進路を変えたように思う。構えた言い方をしてしまうと、自分の空手の道が何となく見えてきたという事になる。同時に空手で目指してきたものがこんな自分の空手で良いのだろうかと時々わからなくなってしまうことがある。良いのだ、いや違うという反する考えの中でそれでもどうにか方向を失わないでいられるというのもまた空手の持つ不思議さでもある。

空手というものは、まったく不条理なもので理に合わない事が多い。それが武道と言ってしまえば話は終わりだが、例えば前屈立ちだ。前後の脚を引き付けるように脚の付け根を締めて立つという事と左右の膝を反発させるように張って立つ事が同時に要求される。普通両膝を外へ張れば膝の後ろ側は緩み、脚の張りは緩くなる。前後の膝を張って後脚をピンと伸ばして立つと左右の張りが弱くなり不安定になる。この相反する動きが要求されるのが武道としての空手である。ちなみに競技空手には多分要求はされないだろう。壮鎮立ちと半月立ちはこれらの立ち方の鍛錬に多いに役立つ。形には鍛錬型と技術を練る形の二つがあると聞く。壮鎮と半月はまさにその鍛錬型の形である。しかし、自分で課題を持って取り組めば平安の形だって充分鍛錬にはなる。だからこの形は技術型だとか、こっちは鍛錬型だとあらかじめ決まっているというのは実は変な話だ。

先の空手の不条理な立ち方について前屈立ちを例にあげたが、膝の外も内側も同時に締める方法は、立ち方にある。足裏でただ立つのではなく、つま先をやや内向きに向け、かかとを開き気味に立って膝を前方へ心持ち曲げるような気持ちで重心を下げる様にたてば、足首も膝も内腿も閉まる立ち方ができる。

結局、空手というものは、基本形組手とやってきて最後には、立ち方に戻るのかなと感じている。立っている姿勢をみれば、どれほどのものかがわかるのかもしれない。案外いろいろな審査の合否の分かれ目は、ここらあたりに潜んでいるのではないのだろうか。そんな事を思っている。

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